くらすひ

ぼんやりしているくらしの雑記

証明写真と枠とわたし

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先日、証明写真を撮りました。近所の薬局の前にある、スピード写真です。プリクラみたいに出てきた写真を見たら、なんだか変な顔してました。もやもやしながら、コートの襟元を寄せ合わせて、家までの道のりを早歩きで帰りました。ここに写っているのは、わたしの皮膚の表面のところだけで、きっとわたしは死ぬまで、自分の内側の100パーセントを誰かに伝えることはできないのかもしれないな、と思いました。

これは、小さい頃から感じている感覚で、自分の中には言葉にできない流動体みたいなものがあって、ひとりで過ごしているときは常にそれと対峙しています。だから、人と会うときや話すときと、ひとりでぼうっとしているとき、あるいは本や映画や音楽や絵画などに向き合っているときはそれぞれ別の世界にいるように感じます。これは誰でも感じることなのか分かりませんが、わたしが出来るだけ誰かに伝えたいのは、流動体の部分なのですけど、でも、それがうまくできないのです、生まれてからずっと。

 

わたしは今仕事をしながら、4月から働くであろう別の仕事を探しています。大学の新卒の時の就職活動でも、証明写真を撮るとき、もやもやしていたなーと思い出します。とにもかくにも、面接が苦手だったわたしは、自分の想いなのに、それをうまく伝えられないことで自らを責め続け、抜け殻のようになりながら、ぼろぼろに傷つきながら、卒業旅行にも行けないまま、卒業間際に今の職場に契約社員として就職しました。人に恵まれ、充実した年月をすごしましたが、もっとこうなっていきたいな、という理想ばかりが膨らむ毎日だったように思います。

ほんとうに理想のところへ行くには、いつか自分の中身を全部出せるようにならないと、だめなのかなあ。わかりません。

 

小さい頃から内向的で、ひとりっ子なのもあったのか、家でひとりで過ごすことが好きでした。本ばかり読んで(毎日1冊読んでました。)、妄想に耽っていた気がします。(暗いです・・・。)小学校くらいから、クラスのみんなが楽しんでいることを楽しめなかったり、ひとりだけ異常になにかに没頭してしまうことがあって、なんだかおかしい、窮屈だし、と実感しはじめるようになりました。

小学校4年生の時に突然学校に行けなくなったこともありました。何がくるしいのか、理由が自分でも分かりません。優しい友達がたくさん周りにはいてくれて、心配をしていつも様子を見に来てくれていました。本当に恵まれていたと思います。でも、わけもわからずからだが動かない、涙ばかりが出てくる。考えてもどうしようもないことが、頭の中で旋回していました。例えば、宇宙の果てのこととか、なぜ自分がここに存在するのかとか、自分の命が今、一秒ずつ消費されていっているんだ、とか。それがこわくてこわくて、しょうがなかったのです。どうしてみんな、平気な顔してすごしているの?と思って、わたしはみんなとは違うんだ、とショックでした。

成長するにつれて、「自分のありのままを出しても、だれも受け止めてくれない」と気づいて、自分の本心を隠す癖がついてしまったようにおもいます。高校生ぐらいまでは、そんな想いをかかえ、息も絶え絶え、生きていた気がします。

大学生になってから、すごく生活がおもしろくなってきました。好きなことを勉強できるし、クラスの枠組みがなくていろんな出会いがあって、個性の際立つ人たちがたくさんいて楽しかったし、好きなときに孤独になれるのもよかった。

卒業して社会人になってからも、充実した日々でした。正社員になれなかったことで、現状に満足せず色々なことを考えられた時間でもありました。幸せは人それぞれで、わたしはわたしで、他の人もそれぞれみんなすばらしくて、そういう考え方を丁寧に重ねていけたと思います。

 

遠回りになっても、寄り道をしても、しつこくしつこくわたしらしく働ける場所を探したいです。子どもの頃からおしゃべりは上手じゃなかったけど、そのかわり文章や絵を描いたり、工作したり、何かを熟考したりするのは好きだったから、そういったことで、誰かの役に立ちたいです。みんなと違うことがコンプレックスで自分を抑えて生きてきた10代のこと。ちょっとずつ、そういう自分もさらけ出して、自らの核の部分を放出できればうれしいです。

わたしはこんなに不器用で不安定だけど、いつもまわりには家族や友人やかつての恋人がいてくれました。わたしのこころだけが、いつも揺れていた。しっかりと恩返しがしていけたら。証明写真の枠をとびだしていけたら。