くらすひ

ぼんやりしているくらしの雑記

ゆらぎのあるわたしができること

 

わたしのくらしや、こころの支えになるような本を読んだので、かきとめておきます。「どもる体」という本は、吃音という事例を用いて、からだや、意識や、社会性などの面から「しゃべること」のしくみに迫った本です。

どもる体 (シリーズ ケアをひらく)

どもる体 (シリーズ ケアをひらく)

 

吃音とは、「どもる」とも表現されますが、言葉がつまったり、連続したりして、スムーズに発話ができない症状のことです。わたしは本屋さんでどきどきしながらこの本を手に取って、どきどきしながらページをめくりました。

わたしは吃音当事者です。生まれつき、うまく言葉がでないことがあります。とはいえ、わたしが吃音症であるということを近しい人に伝えると「そうだったの」と驚かれるので、それはどうにかこうにか、吃音を「隠せてこれた」ということなのだと思います。でも、それはしゃべることを「ごまかし」たり、「回避」したりしながら、ほんとうのきもちも一緒に隠してきてしまった、ということでもあるかもしれません。

 

本書では吃音を、「言葉を伝えようとして、間違って肉体が伝わってしまう状態」と表現しています。ふつう人は、この音を出したいから喉はこれくらい開いて…など考えずとも話すことができますが、吃音は、その自動化されたシステムがレールからはずれてしまう状態になります。ふつうなら意識の下で自動的に動いているからだが、言葉より先にでてくるようす。それが「どもる体」です。本の表紙、口の中から、ぴょこんと体が飛び出しているイラストは、吃音当事者にとっては、ナルホドーと感じられます。(この絵はカワイイので、なんだかうれしいです。)

 

わたしは生まれつき、連発性の吃音(はじめの音が連続してしまう。)を持っていましたが、成長するにつれ、それを隠そうとするためなのか、難発性(言いたい言葉が浮かんでいるのに声にならない。)の吃音がひどくなってゆきました。今も、この難発の症状は環境や状況によりあらわれ、日によっては、とてもくるしい思いをする時もあります。

とくに言いづらい音や単語というものがあるので、その言葉を避けて話すということもします。例えば「犬」と言いたいけど言えないので、「わんこ」と言い換えるだとか、「イチジク」と言えないから「あの、赤い果実、ザクロじゃなくって……」と名前を忘れたふりをするだとかです。(こんなふうに、吃音当事者はさまざまな工夫を重ね、自分なりの話し方を構築しています。なので、一見吃音と分からない「隠れ吃音」の人はとても多いです。)

 

固有名詞だと、とくに大変です。例えばわたしが「井原くん」という男の子が好きだとして、「井原くん、おはよう」と言いたかったとしても、その彼の名前がとても言いにくい。おはようだけではなくて、彼の名前をやわらかく呼びたい。そこから伝わる想いを受け取ってほしい。だけど、伝えることができない。

言いづらい言葉が、次の文章に出てくる予感がする、どんどん近づいてくる、もうすぐくる、くる、というような、こわさがあります。次は言えるかな、と、まるで博打みたいに言葉を話す準備をするときの、緊張感。突発的に言葉がつまってでないとき、そのまま相手の腕に飛び込んだら、肌から想いが全部伝わってくれれば良いのにな、そう思って、ひとりぽつんと、途方に暮れることがあります。

 

 本書では、吃音当事者の方の症状や、その時の感情がこまかく記されています。(人によって、ほんとうにさまざまです。) 料理家として活躍されている高山なおみさんは、子どもの頃から吃音があったそうです。「人前で話そうとすると、細胞の活動がとまってしまうような気がする」というような死のイメージや、「世界から一番遠くに離されていく感じ」というような恐怖心を語られています。

自分の体がなぜうまくはたらかないのか、そのモヤモヤした疑問が丁寧に言語化されているので、当事者の方にとっては共感できる部分があり、少し心が軽くなるかもしれません。そして、当事者ではない方から見ても、「ことばの世界には、こういう場所もあるんだなあ」と感じられるのではないかと思います。

 

言葉をうまく話せない時、私はそのもどかしさを埋めるために、文章を書くということをしました。友人や、両親に手紙を書いたり。(小学生のころ、好きだった男の子が転校してしまう時、人生で初めてラブレターをかきました。) 小説などを書くのが好きなのも、言葉を書くことならば、よどみなく、ほんとうのきもちを伝えられる気がしました。自分のことや、だれかへの愛をまるごとつつんで、手渡せる気がしました。

それでも、社会生活の中では、どもる体は否応なしに顔を出します。定食屋さんできつねうどんを頼む時も。電話で、宅配便の再配達を頼む時も。シティホテルのチェックインで、自分の名前を伝える時も。

 

そんなどもる体を、克服する方法はあるのか。吃音に関する本では多く記されるテーマですが、本書の最後は「ゆらぎのある私」という章で締めくくられています。「私」と「私でない私」(不意に飛び出てくるどもる体)の間で揺れながら、圧倒的な体の論理の渦の中でもがくこと。私をこえていく私の存在の面白さに、常に誠実であること。それが吃音を抱えながら生きることなのだそうです。

そして「体と結びついた強さ」が吃音にはあって、それが人を魅了する力にもなり得るともかかれていました。わたしも、どもる体の揺らぎの中、押し出すように声を出すので、ハキハキと話すことが難しいですが、それでも、わたしのこの話し方や声が好きだよ、と言ってくれる友人や知人の存在があって、わたしはとても救われた経験があります。すべてをうまくコントロールできることだけが、魅力的なわけではないということ。吃音に限らず、自分の力では抗えないなにかと戦っている人すべてに、伝えたいことです。(マリリン・モンローの悩ましげな色っぽい声も、幼少期の吃音にあるのだとか……)

 

今まで、吃音症であることはあまり周囲に伝えてきませんでしたが、わたしがこうやって文章をかくことで、「どもる体」のことを、まずは多くの方に知ってもらうこと、そして、だれかのくるしみをやわらげることが少しでもできれば、と思い、この文章をかきました。また、わたしにとっては自分のまるごとを伝えることが、関わってくださるやさしく、まっすぐな人たちへの、誠実さでもある気がしています。(もちろん、言わないという選択も、誠実なことです。人それぞれの環境や、思いがあります。)

 

そして、本書を読んで新たに、「どもる体」だからこそ、なにかできることはないだろうか。そんなふうに、考えをめぐらしています。くるしいこともあるのですが、少しずつ、人間の体のおもしろさや、果てのない謎について、もっと知りたいなと思うようになりました。ゆらぎのあるわたしにしか、表現できないこともあるのかもしれない。

長々と読んでいただけたこと、感謝します。みなさんとも、いろいろな考え方を伝え合えたら。もしよければ、ご感想などなど、お待ちしています。この世界には、ふしぎなことがたくさん。今日もぼんやりしながら、カーテンの隙間から見えるゆうぐれを眺めています。