くらすひ

ぼんやりしているくらしの雑記

パーティーで流す音楽を―映画「さざなみ」

「パーティーはあまり好きではないの」結婚をしてから、45年の記念日をパーティーで祝う予定の夫婦。シャーロット・ランプリング演じる主人公がドレスを選びながらつぶやいています。(彼女の演技がすばらしかった。ほんとうに。)

屋根裏部屋で、夫の昔の恋人のフィルムをみつけてしまう。彼女はもう死んでいて、だけどもし彼女が生きていれば、結婚していただろうと漏らす夫。「パーティーのBGMに何を流しますか。」という電話がパーティー会場からかかってくる。心を波立たせている主人公がとっさに選んでいる曲がどれもかっこよくて、いてもたってもいられなくなったので、ここにまとめておきます。

 


Happy Together - Turtles

 


For What It's Worth - Buffalo Springfield

 


Marvin Gaye - Your Precious Love

 


Jackie Wilson - Higher & Higher Official Video
(PVがガンガンにかっこいいです…。)

 


Platters - Smoke Gets In Your Eyes
(こちらは「プラターズの『煙が目にしみる』もお願い」みたいな感じで、これだけ訳したタイトルで字幕がつけられていたのもいいですね…単純に訳の方が有名だからかもしれませんけれど、日本語ってうつくしいですね。)

 

どれも大人の夫婦のパーティーで、踊りながら聞きたい曲ですけれど、主人公の焦りとくるしみの心の内をめぐって出てきた曲と捉えたら、涙が出てきそうです。若き日のふたりの思い出の曲なのかもしれません。あえて全く興味のない曲だったのかもしれません。分からないですけれど、いろいろ想像をふくらませて、映画の余韻にひたるのは特別な時間です。

 

さざなみ [DVD]

さざなみ [DVD]

 

 映画「さざなみ」。邦題もぐっときます。このDVDのパッケージも。夫の顔が見切れています。夫は過去をみつめているのかもしれません。男と女は別の生き物だから、きっとわかり合えることは一生ないのでしょう。ラストシーンは強烈でした。わたしは主人公の気持ちが分かったので、やっぱり自分って女なんだな、と思ってはっとしました。すごく不思議な気持ちです。しばらく、この音楽たちが耳から離れなさそうです。

映画「ぼくとアールと彼女のさよなら」

あらすじ

スクールカーストのどの位置にも属さないように過ごす「ぼく」は、敵もつくらなければ仲間もつくらない自己評価の低い高校生。唯一「仕事仲間」と呼ぶ黒人の「アール」とだけ、過去の名作と言われる映画の数々をパロディにして作品をつくっていました。そんな主人公のもとに「彼女」、白血病のレイチェルとすごす日々がやってきます。その関わりの中で「ぼく」に変化が訪れるのでした。

大切な人の死をみつめる青春ムービー

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日々をやり過ごす主人公と、病気と闘う女の子、そこで生まれる恋愛感情……。をはじめは想像して、観るかどうか迷っていたのですが。このワンシーンの写真がなんとなく好きだったので観てみました。ぼくと、アールと、彼女が階段に座って、アイスキャンデーを食べるシーン。大好きなシーンになりました。このアイス、赤と白と青の三色になっていて、うっとり。ファッション、部屋のインテリア、パロディ映画のパッケージなど、ビジュアル面はとってもキュートです。

ストーリーはテンポ良く進み、彼女の病気もさらっとえがかれ、それがとてもよかったです。ぼくと彼女が恋愛関係にならなかったのも。これは重要なところです。ふたりはうっかり、キスでもしてしまうの?と思っていたけれど、ふたりは「友達」であるわけで、ほっとしました。

大切な人の死を見つめる青春ムービー、に違いはないのですが、その見せ方が軽いタッチで、それがやけに胸をあつくさせるのでした。

 

くるしいし、かなしいけど

主人公は人となれ合わないことで、日々に波風をたてないようにすごしていました。でも、彼女と出会ったことで、他人に感情をぶつけたり、アールと喧嘩したり、心をかきみだされたりします。だれかと深く関わると、ときにかなしくくるしいけど、それと同じだけの幸福もやってくるものです。

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(アールの眠たげなまなざしと、いつもかぶっている帽子がとてもオシャレ)

主人公と彼女の関係性に、アールがスパイスを加えます。干渉しすぎない、でも、なんだかんだ信頼し合っている。かっこいいです。

 

 

 日本では劇場公開されなかったようですが、たくさんのひとに観てもらいたいなと感じる作品でした。

中華料理屋にて

年が明けました。今年もよろしくお願いします。


最近、夏から会っていなかった友人と会いました。遅くなったけど、と誕生日プレゼントに口紅をくれたのですが、「いつもどんな色のやつを塗っているか分からなかったんだけど、元々のくちびるの色が濃いイメージだったから」と彼女はいいます。「なんで分かるの、すごい」と言ったら、笑ってました。とてもうれしかった。

 

彼女は三人姉妹の末っ子で、とても素直でとても素敵な言葉をくれる友人です。以前、彼女が当時の恋人と別れざるをえなかったとき、わたしはその話をじっと聞いていました。そこは中華料理屋さんでした。彼女のその恋人に対する愛情も誠実さも全部知っていたので、わたしもくるしかったし、それでも何もしてあげられることはないし、「それだけの力を尽くしたのだから、きっとどこかへまたきちんと導かれるのだと思う」というようなことを、つっかえながら言うことしかできませんでいた。

だけど彼女はわたしが話し出すとみるみる目に涙を浮かべて、「ほかの誰に話してもこんなことなかったのに、不思議とかなしくなる。泣けてくる。」と言って、泣き始めました。

もっと、気のきいたことや、根拠のあるようなことを言ってあげられたらな、と思ったのですが、彼女が泣いているのを見ていると、「これからもずっと友だちでいてね」と言う気持ちばかりがあふれてきて、中華料理屋さんのペーパータオルをずっと彼女に差し出すことしかできませんでした。

かなしいときに、それを全部あらわにしてくれて、うれしかったです。

彼女もあの日、小籠包を全部平らげていたから、よかったなと思います。

 

彼女のくれた口紅はとても綺麗な色です。

映画「怒り」感想―信じるということ

映画「怒り」

第41回報知映画賞ノミネートが決まったとのこと。9部門の最多のノミネートとなったのが、映画「怒り」でした。

まだ夏の暑さが残っていた3ヶ月程前、わたしも映画館へ足を運びました。原作は吉田修一。元々小説を先に読んでいました。下巻からの展開は胸がくるしくて、何度も本を閉じながら、読み進めたのを覚えています。

怒り(上) (中公文庫)

怒り(上) (中公文庫)

 

住宅街の写真に怒りの文字が書きなぐられている装丁。映画の最初のシーンも、住宅街の空撮映像からはじまります。

映画を観終わったとき、しばらく胸がじんじんして、動けなくなりそうでした。ずっと映画館の暗闇の中にいたかった。(エンドロールの間も何人かの人が鼻をすする音が聞こえてきて、あ~つられて泣いてしまう~って思いました。)キャストが発表されたとき、その豪華な顔ぶれが各メディアで話題になっていました。わたしも好きな俳優さんばかりで期待していましたが、やっぱり俳優さんの演技力に魅せられた作品だったと思います。あの日映画館の暗闇で感じたことを、ちょっとだけここにかいておきます。

あらすじ 

ある夏の暑い日に起こった夫婦殺人事件の犯人が逃亡してから一年後、千葉と東京と沖縄に、素性の知れない三人の男が現れます。この三箇所を拠点に、彼らと出会った人々それぞれの、三つの物語が同時に進んでいきます。男と少しずつ打ち解け、おだやかな生活が続いていたころ、新たに警察から公開された手配写真。出会った男に、愛した男に、信じた男に、その写真の顔が似ていたのです。愛した人が、殺人犯かもしれない。そこで繰り広げられる人間模様がえがかれています。

それぞれの「怒り」

この作品のタイトル。殺人犯は犯罪の現場に、「怒」の文字をかきつけて姿を消します。犯人は何に怒っていたのか、社会になのか、特定の人になのか、あるいは自分になのか、最後まで、直接犯人の口からこぼれることはありません。事件モノのストーリーは、そういった動機に焦点が当てられることも多いですが、この映画が描きたかったのは、きっとそこではないのですよね。

例えば、誰かにからだとこころを傷つけられたときの「怒り」。

例えば、信じていた人に、裏切られたときの「怒り」。

例えば、大切な人を疑うということの意味と、その相手が無実だったことが明らかになったとき生まれる、自分への「怒り」。

私たちが人と関わるとき多かれ少なかれ生じる「怒り」という感情が、どういうものなのか。時に人を傷つけるかもしれないし、もしかしたら誰かを守るパワーになるかもしれない。暴力的だけど、失うと生気がなくなってしまう。喜びや悲しみには含まれていない、人間の「怒り」という感情のことをあらためてみつめられた気がします。

誰しも信じたいし、正しくありたい

この映画では「ふつう」の人たちがたくさんでてました。みんな、心配事や悩みをかかえて、今よりもうちょっと幸せになりたいなと思っている。そんな生活の中で新たに出会った人のことを、愛したいし、信じたいと思っている。できるだけ、正しくいきていたいと思っている。だからこそ、時々、うまくいかなくなる。でも、なんとかそこにしがみつくしかないんですよね。そういう感情を表現されていた俳優さんと、演出に拍手です。

また、くるしいおもいをしながら、観たい映画です。

 


「怒り」

余談ですが、この予告でも流れている音楽がすごく好きでした。
映画館で大音量で聴いて、涙が出た曲です。

 

友人と過ごす土曜日の話

長らく体調をくずしていたので、休日を友人と過ごすのは久しぶりでした。(しばらく仕事以外の日は、家にこもって部屋を片付けたり、録画しておいた映画をみたりしていた。)家を出る直前に、夜から降り続いていた雨が上がって、空は曇っていたけどあたたかい。駅の改札を抜けてきた友人に「雨やんで良かったね」と言うと、「そうだね」と笑っていました。

二人でお昼ごはんをたべて、街を一緒に歩いて、気になったお店があったらのぞいたりして、タリーズコーヒーに入ってコーヒーを飲みます。友人は角切りにしたイチゴが入ったアイスティー。それをすべて飲み終わって、カップの底にイチゴが残っていたので、「これって食べないの?」と聞いたら、「食べたいけど、吸えない」と言ってストローをもてあそんでいました。(完璧にストローが細い。)友人はカウンターまで行って、プラスチックの小さいスプーンをとってきて、カップのふたやストローをとって机に転がし、(その様子が不安定で「なにかのオブジェみたい」と言ったら笑っていた。)イチゴをぱくりと食べました。「あっ、おいしい!」と友人は目を丸くします。別におもしろくもなんともないけど、わたしはなんだか声を出して笑ってしまった。

わたしは時々、すごく不思議に思います。ただの言葉のやりとりが、その空間、その瞬間、そのふたりの関係性の中でだけ、すごく輝いたりすること。残念ながら、言葉は発した瞬間に消えていって、記憶の中からも薄れていってしまうけど、相手のことをまた好きになる感覚はちゃんとつもっていく。

ふと、休日に一緒にすごす友人がいて、ケラケラ笑っていることが、ありふれているようでとてもありがたいことだと感じます。大袈裟だけど、友人の休日のひととき、つまりは人生の一部を、わたしと過ごそうって決めてくれたということだから。

友人は来週、誕生日を迎えます。ずいぶん前から恋人に「予定空けておいて。」とだけ言われていたそう。けど、「昨日電話がかかってきて。ちょっと今から考える。って言ってた。まだ何も考えてないんか~い」ってこぼしてました。でも、うれしそう。どうか、いい日になるように。

風邪をひいている間に考えたこと

ぐんぐんと冬に向かって季節がおし進められています。わたしは二週間くらい体調を崩していました。最初に胃腸炎になってしまって。ごはんが食べられなくて、よわったナーと思っていたら、次に喉の風邪になってしまいました。おなかの調子が良くなったら、もりもりごはんを食べて、昨日くらいからやっと元気になりました。

風邪をひいて、高い熱が出て、仕事も休んでしまいベッドで眠っていると、いつもとまったく別の世界で過ごしているみたいでした。目が覚めると何時か分からないし、でも体が動かないのでまた眠る。長い間眠っているから、夢を見たりする。それも、長い長い夢を。わたしはおなかを壊しているというのに、夢の中で喫茶店にいて、パスタを食べようとしていました。店員さんはひとり。飲食店なのに、髪の長い男の人だった。わたしはメニューをながめ、「檸檬クリームパスタ」の文字に釘付けになってしまいました。湯気を思い浮かべるだけで、レモンの酸味が、脳の中をかけめぐって、もう虜です。だけど、よし、注文するぞ、と言うところで目が覚めてしまって。ふと、おなかが痛かったことに気づいたときの、くるしみといったら。

ごはんがおいしく食べられると言うことは、幸福です。

 

そんなふうに夢と現実の境が分からなくなっているような、風邪の真っ最中は、眠くなったら眠り、おなかがすいたらごはんを食べる、というように、からだの欲求を優先して時を過ごします。元気なときは、仕事に行かなきゃいけないから、えいやっと起きて、ごはんを急いで食べて。お昼の休憩の時間だからお昼ごはんを食べて。明日もはやく仕事に行かなきゃいけないから、眠って。生活のスケジュールに、からだを合わせていくってことを、普段は無意識にがんばっているんだなって、おもいました。わたしはとても面倒くさがりで、とてもマイペースなので、余計に。もっと毎日、じゆうに、動物のように気ままにすごすことが、なんだかとても心地よく感じました。(風邪はつらいのですが。)

生き物として、欲しているものを、ちゃんとつかまえると言うことは、案外大事なのかもしれません。いろんな健康法だとかが、今は情報としてあふれているけれど。これを食べるとキレイになれるとか。こういう眠り方をすると短時間で疲れがとれるとか。頭で考えてからだをコントロールするのは、わたしには難しそう。「おいしいな」と思うものをたべて、「きもちいいな」と感じながら眠って、シンプルに暮らせたらうれしいです。

とにもかくにも、檸檬クリームパスタが食べたい。

 

しぬことが怖かった小学生

録画したまま見ていなかったNHKのスイッチインタビュー「新海誠×川上未映子」をみました。川上さんが以前からとても好きで、お顔も写真を見て知っていましたが(とてもお綺麗な方です。)、実際にしゃべっているところははじめてみました。「小さい頃からおしゃべりだったんです」と言う川上さんからは、次から次から言葉があふれていました。わたしは、話すのが苦手なので、彼女のことをとても魅力的に思いました。思っていることを瞬時に言語化できるのは、とてもうらやましいです。いいなあ。

でも、川上さんのお話を聞いていて、「これ、わたしも一緒だ」と思ったことがありました。

「小さい頃、常に死に見つめられているような気がしていたんです。」「自分で決めてないのに、なんで自分は生まれてきたのか?」「みんな死ぬということが、ショックだった」「誕生日に、死に向かっているのに、なぜ祝うの?と言葉にしたら、周りからひかれてしまった…」

わたしも全く同じことを考えていたんです。


自分がいま生きているというのが、どういうことなのか分からなかった。死ぬっていうのは、バサッといまこの目の前の何もかもがなくなるということ。死んだらぜんぶおわり。じゃあ、ごはんをたべたり、友だちとしゃべったり、ねむいな~と感じたり、そういうわたしの何もかもは、いったいなんなのだろう?わたしはこの先ずっとずっと、こうやって朝がきたら起きて、夜になったら眠って、それを繰り返し続けるのかな。終わりはいつくるの?70年後?それとも明日?とにかく、時計の針が進んでいくのがこわかった。何をしていたって、ただ終わりにだけ突き進んでいることが、たまらなくこわかったのです。


この感覚は、いつのまにか消えていきました。いつ消えたかも分かりません。これが大人になるってことなのかな。母親にだけ、大人になってから話したことがあります。こういうこと、子どもの時おもってたって。母親は「エー」と目を丸くして、「ヤバいこともだね」と笑ってました。川上さんも同じことを思っていたと知って、もしかしたら子どもって、そういうことを考える生き物なのかなって思いました。大人になって忘れてるだけの人だっているかもしれないし。大人は理屈と常識でものをみるけど、一度は不思議に思うのがふつうなのかもしれないです。生きるとか死ぬとかって、よく考えたらとんでもないことです。


今は時計が進んでいくのも、こわくないです。もうあんな思いはこりごりですが、また年をとったりしたら、思うのかもしれません。毎日おいしいものをたべて、なるべく笑って過ごさないと。